もものともしび

ほのかにひかる

ミッドサマー

夏至が来た。この日が来ると毎年頭を抱える。この先、日が短くなる一方じゃないか。自分は日が出ている時間が短い季節に弱い。11月になると、迫りくる寒さと日暮れの早さに参ってしまう。その代わり冬至が来れば、ここからは日が長くなるぞ、と少しわくわくする。

夏至を過ぎてもしばらくは日が長いので、鬱々とせずにいられる。そんなに早起きする方ではないから、日の出が遅くなってもあんまり問題ではない。日の入りが早くなってくるともうだめで、冬の暗さ、寒さを思うと滅入ってしまう。冬は冬で、クリスマスもお正月も、バレンタインもあって華やかなイベントに気を取られているうちに春がくる。でも、どのイベントも冬至の後なのだ。冬至を越せるかどうか、毎年不安になる。

色んな人たちが夏至を通り過ぎても平気な顔をして過ごしているので、どうやって乗り越えているのだろうかと思う。日の長さに左右されない強さがあるのかしら。いつか夏至を祝祭として過ごせるときが来ればと思う。

30にして惑いっぱなし

最近、「25歳を過ぎたら読む本」と帯のかけられた本を読んだ。ちょっと自分が手に取るには、遅かったらしい。30歳を前にして現れるもやもやについて書かれていたけれど、今年になって30歳を迎えてしまっている。何年か前の自分には良かったかもしれないけれど、もうなっちゃったよ30歳、となってしまった。

正直、もっと大人になってると思っていた。結婚も仕事も昔描いた理想には届いていない。結婚はおろか、パートナーも不在だし、仕事は正規職でもない。職場の新卒・第二新卒向け求人を見ていたら、自分の給料よりちょっと良い額面が書いてあって、そっと画面を閉じた。もう少しだけ出るのが早かったら申し込んでいたのに。

インスタグラムを眺めていると、気づいたら子どもの写真で溢れていて、愕然とした。自分の投稿はネコカフェのネコの寝顔に、1人で行った動物園のキリンの写真。結婚がまだという友人たちは、パートナーと行ったであろう旅先やディナーの写真。焦らないと言えば嘘になる。

1人でいることも、今の仕事に就いていることも、そんなに悪くないと思っている。かと言って、ずっとこのままでも!と思えるほどの最適解だとは思っていない。たまに何となく眠れない夜に、うっすらとした焦りを覚えて、背中に嫌な汗をかく。我が道を行く、と割り切れるほどできた人間でもない。ちょっと八方塞がりな気がしてしまう。 とりあえずは、このままもう少し歩いてみることにする。

おもう人たち

友人に招待された結婚式が近づいてきた。慌てて買いに行ったフォーマルもある。鞄もパーティ用のがあったはずだし、袱紗もしまってあったはず。あとは御祝儀袋を買わねばと、文房具も扱っている本屋に行った。

壁のある部分が御祝儀袋で埋められている。色とりどりの御祝儀袋たち。水引で鶴をかたどったものもあれば、オーソドックスなもの、男性向けと書かれた紺ベースのもの、本当に様々である。包むのは相場くらいなので、あんまり派手なものを選んでしまってもなぁ、ぷくりと桜の模様が浮き出た少し凝ったオーソドックスなものを手に取る。

今回の招待は、受付も余興も頼まれなかったなと、ふと思う。結婚式に呼ばれるとだいたい披露宴やら二次会やらの受付を頼まれる。多分自分の仕事のイメージから、受付を想像しやすいんだろう。余興も他の友人たちと頼まれたことがある。純粋に出席するのは久しぶりすぎて、逆に構えてしまう。

コロナ禍の間に人生の四半世紀が過ぎて、身の回りの友人たちはどんどん結婚していった。インスタグラムで入籍したり、式を挙げていたりするのを見たのも多かった。そんな中で、友人として招待状を出してくれる人がいると、少しだけきゅんとしてしまう。お互いに友人だと思えていることにきゅんとするのだ。式場の限られた席の中に、自分が身を置くことを許してもらえる。その事実にちょっと感動してしまうのだ。

自分は相当無精で、滅多なことでは友人たちに「会おうよ」と計画することがない。「会いたいね」は言うのだけれど、その人の抱えている生活を想像すると何となく計画しようと誘えなくなる。友人だと思っているのは自分だけで、相手からは顔見知り程度だったりして、なんていつも思ってしまうので、友達の定義は難しい。なので、結婚式に呼ばれて久しぶりに会うなんてこともザラだし、その結婚式で別の友人たちにもやっと会う感じである。そんな無精を数少ない友人テーブルに選んでくれるのだから、自分の友人たちには感謝が絶えないのである。

 

小さな頭突き

ある路地を通ると、必ず行く手を塞ぐ猫がいたことがある。黒にお腹と足が白い猫で、通るといつも足元にまとわりついてくる。どうやらその近所の家に住んでいるのか、ご飯をもらっているのかをしているらしい猫だった。たまにしか通らないけれど、用事があって通る時はあの猫いるかなといつもわくわくしていた。

向こうが自分のことを見つけると、とてとてと歩いてくる。そして体を使って通せんぼしてくるのだ。何もせずに突っ立ってみたこともある。そうしたら、足元をぐるぐるすりすりと徘徊された。ある日、思い切って背中をなでてみたら、じっとされるがままにしていた。立ち上がって行こうとしたら、もっとなでろと言わんばかりに頭突きをしてきた。その日はしばらくそこでしゃがみこんでなでていた。当時は心が疲弊してどうしようもないくらいで、ただ電車に乗っているだけで泣いてしまいそうなくらいだった。そこに猫が寄り添ってくるのに、かなり救われたのだった。

しばらくして路地を通ると、いつもの猫はいなくなっていた。近所の家には数日前に行われた保護猫譲渡会の貼り紙。飼われているのではなく、保護されていた猫だったらしい。あの人懐っこさなら、きっと引き取られた家でも仲良く暮らしていけるだろう。通りすがりの人にアピールするより、家族に大切にしてもらえるほうがずっといい。幸せであってほしいと思う。

その路地は今でも用事があって通る。違う猫たちが座っていたり、寝転んでいたりするけれど、どうやら人見知りらしい。頭突きしてきたあの猫は元気にやっているだろうか。心がぼろぼろになった日は猫の手触りを思い出して、救われる気がする。

紫の香り

髪を切った。美容院に行くのがどうにも苦手だったのだけれど、最近は担当してくれているお兄さんが寡黙なので行くことが出来ている。何を話せばいいのか分からないので美容院は苦手だった。前に担当してくれていたお姉さんが辞めてしまう前に、後任でこの人はどうですかと紹介を受けたけれど、自己紹介欄に「おしゃべりが好きです」と書かれていて頭を抱えた。たまたま行った時に担当してくれたお兄さんがこれからする作業の宣言以外はあまり話さない人だったので、紹介してくれたお姉さんには申し訳ないけれどお兄さんを指名することにした。

寡黙なお兄さんは店長なのだという。そのお店に通っているのが長いので、お兄さんは入ってそこそこだと思っていたけれど、思ったより時間が経っていたらしい。たまに自身の話をしてくれ、後輩の面倒を見ていること、コンテストを受けようとしていることなど、ぽつりぽつりと話す。実直な印象のその人は、人柄もあって店長なのかなぁなど思いながら話を聴く。

そこの美容院は待ち合いでおしぼりを出してくれる。開けるとラベンダーが香るおしぼりは、ひそかなお気に入りだ。手に取ると香りが鼻に抜ける。こっそり周りのお客さんを観察すると簡単に手を拭いておしまいにしている。何度も手を拭いてるのは自分くらいでちょっと気恥ずかしい。でも香りを嗅いでいたくてずっとおしぼりを手に取っている。はたと気付いた。このおしぼりが好きなのではなくて、ラベンダーの香りが好きなんじゃないか。確かに良いおしぼりではあるけれど。

試しにラベンダーのアロマオイルを買って帰る。部屋のアロマストーンに垂らす。じわり、と香りが部屋に広がる。あぁ、好きなのはこの香りだった。何故かずっとラベンダーは苦手な香りだと思いこんでいた。呼吸が深くなる。寡黙なお兄さんに幸あれと少し願ってみる。

ぴかぴか光る

ご飯を食べることが好きだ。好きすぎるあまり、体型は完全にメタボである。2年前までは痩せ型で、標準よりも軽い体重だった、なんて今会う人に言っても信じてもらえないだろうけれど。

栄養を取ると、顔が輝くような気がしている。どういう仕組みなのか分からないけれど、ご飯を食べると途端に手があたたかくなる。栄養が行き渡っている実感がある。仕事が立て込んでいても、おやつ休憩は作るし、忙しい時こそ意固地になって休憩しているような気がする。本当に予定がぱんぱんな時は戦闘モードなので、何も食べずにずっと稼働していられるけど、それが続いた時に寝込むぐらい具合が悪くなるのでやらないようにしている。

昼休み、職場の食堂へ行く。日替わりの定食メニューたちを前に、いつも迷ってしまう。シシリアンライス、なんだろう。こっちはカキフライ。チキンソテーもある。シシリアンライス、気になる。でもなぁ。

迷った果てに、カキフライを食べる。さくさくの衣、ミルキーなカキ。カキフライを最初に作った人にいつも感謝したくなる。この組み合わせは美味しいと確信してくれてありがとう。食べ終わる頃には手があたたかくなる。目の奥から発光しているような気がする。こうしてぴかぴかなまま午後が来る。

生産的な休日

休みの日は自堕落を極めている。起きるのは昼になってから、ご飯を食べたら、眠たくなるのでそのままお昼寝。夕方になって、のそりと起きてきてまたご飯。生産的なことは何一つない。

いつだったか、あまりにも自堕落を極めているので、何か一つでも生産的なことをしようと思って、スコーンを焼いてばかりいたことがある。材料さえあれば混ぜて焼くだけなので、そんなに手間ではない。焼き立てをかじると格別に美味だし、冷ましてからおやつにするのも良い。何より「生産」するのだ。こんなに生産的なことはない。やる気がある日にチョコチップなどを買っておけば、フレーバーも変えられる。自分はそれを生産的スコーンと呼んでいた。非生産な日常を生産的に。そんなスコーンである。

ただ、気がついたら生産的スコーンを作ることすらしなくなっていた。非生産でもいいじゃないか。布団からあまりにも出ないので、カウチポテトですらない。そんな休日ばかりでも、世界は愛おしい。